幹事クリタのコーカイ日誌2007

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8月16日 ● 「うば桜」から名伯楽へ。

 朝青龍問題で揺れる角界に衝撃が走りました。元横綱琴桜が亡くなってしまったのです。愛弟子の琴光喜の大関昇進を確かめて納得したかのような突然の死でした。

 琴桜はまだ大鵬が全盛時代から「猛牛」と言われて大関を務めていましたが、ライバルである北の富士、玉の海が横綱に昇進しても相変わらずの大関暮らしで、その間30場所中17場所が1ケタ勝ち星。「うば桜」と陰口を言われるほどの弱い大関でした。ところが玉の海の死が影響したのか、ある場所、突如として強くなり連続優勝を果たして32歳にして横綱に昇進してしまいました。あの時の琴桜の変貌は今でも印象的です。「うば桜の狂い咲き」とまで言われていましたからね。

 しかし、さすがにその年齢では昇進後に目覚しい活躍ができたわけではなく、横綱在位わずか8場所ですぐに引退してしまいました。横綱まで出世しながら何となく印象が薄く、横綱でありながら力士として成功したと言いにくいような苦労人なのです。

 ちなみに横綱琴桜の土俵入りは不知火型でした。今では雲竜型に比べて「短命」と言われる不知火型ですが、実は昔はそんなことはありませんでした。22代太刀山は7年、36代羽黒山はなんと11年、43代吉葉山も4年横綱を務めました。その後に51代玉の海が急死し、そしてこの53代琴桜が短命横綱だっために「不知火型=短命」のイメージができてしまっただけなのです。まあさらに隆の里や双羽黒などがそのイメージをより固めてしまったので仕方ありませんが、いま不知火型の白鵬はまだ若いですし短命説をぜひ覆してもらいたいと思っています。

 話が逸れましたが、琴桜は引退後、すぐに師匠が亡くなって佐渡ヶ嶽親方として部屋を継ぎました。彼が本領を発揮したのは、むしろこれ以降です。琴風・琴欧州・琴光喜と3人の大関を生んだだけではなく、琴錦・琴富士・琴の若ら合計22人の関取を育てて、番付を「琴ちゃんず」だらけにしてしまいました。1990年代は二子山部屋と佐渡ヶ嶽部屋が勢力を張り合っていた時代でした。幕内優勝力士4人というのは、歴代親方最多タイだそうです。

 琴桜が名伯楽になれたのは、なにより人を惹きつける魅力があって、多くの逸材を次々と自分の部屋に入門させることができたからだそうです。かつて豊臣秀吉も「人たらし」と言われましたが、若い頃にいろいろと苦労したことが、後に人の心を掴む人間に成長させる修行になるのかも知れません。「うば桜」「短命横綱」としての苦労が、力士を育てる上で何らかのヒントを彼に与えたのでしょう。

 琴桜が角界に残した「人材」という遺産は大きなものがあります。ぜひ彼の弟子たちがいま危機を迎えている角界を立て直して欲しいと思いますし、それが亡き師匠に対する最大の恩返しではないかと思います。